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第78章 カルバリー   「わたしは限りない愛をもってあなたを愛してる」 

「 「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ……た」(ルカ23:33)。  「イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである」(ヘブル13:12)。神の律法を犯したために、アダムとエバはエデンから追放された。キリストはわれわれの身代りとして、エルサレムの境界の外で苦難を受けられるのであった。主は門の外で死なれたが、そこは重罪人たちと殺人者たちが処刑されるところであった。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」ということばには深い意味がある(ガラテヤ3:13)。」 深い意味とは何だろう。 イエス様の十字架は よく青銅の蛇に例えられる。  「そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章 なぜ、子羊の姿ではなく 蛇の姿なのだろう。 「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。」 イエス様が私たちの罪を全部背負って、蛇の姿を取られた。イエス様が呪いとなられた。これはなんということだろう。 「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。」 「どんな人間の発明によっても、罪を犯している魂を救う道をみいだすことはできない。「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」「悪い思い、すなわち、殺人、姦淫(かんいん)、不品行、盗み、偽証、誹(そし)りは、心の中から出てくるのである」(ローマ8:7、マタイ15:19)。流れが清くなるには、心の泉がきよめられなければならない。自分で律法を守る行為によって天国に入ろうとする者は不可能なことを試みているのである。律法的な宗教、敬虔の形だけを持っている者には安全がない。クリスチャンの生活は古い...

第56章 子供たちを祝福される

「イエスはいつでも子供を愛されるお方であった。イエスは彼らの子供らしい共感と、うちとけた気取らない愛を受け入れられた。彼らの純潔な口から出る感謝の賛美はイエスの耳には音楽にきこえ、狡猾(こうかつ)で偽善的な人たちと接触して心が重くなられた時、その精神を生きかえらせた。救い主はどこへ行かれても、そのおだやかな顔つきと、やさしく親切な態度によって、子供たちの愛情と信頼とをかち得られた。 ユダヤ人の間では、子供たちをラビのところにつれて行き、手をのせて祝福してもらう習慣があった。ところが救い主の弟子たちは、主が大事な働きをしておられるので、そんなことに邪魔されてはならないと思っていた。母親たちが、小さな子供たちをつれてイエスのところへやってくると、弟子たちは面白くない顔で彼らをながめた。彼らは、この子供たちがあまり幼いので、イエスのみもとにきても益を受けることはないと考え、主は子供たちがそばにくることをお喜びにならないと結論した。しかし主がお喜びにならなかったのは弟子たちのことであった。救い主は、子供たちを神のみことばに従って訓練しようとつとめている母親たちの心配と重荷を理解された。主は彼らの祈りを聞いておられた。主ご自身が彼らをみもとに引きよせられたのであった。 」  「イエスはいつでも子供を愛されるお方であった。」いつでも・・・時々ではない。 純粋な口から出る感謝の讃美はイエスさまの御耳には音楽に聞こえる。しかも、その精神を生きかえらされた。すごい! イエスさまは、どこへ行かれても、おだやかな顔つき、やさしく親切な態度。。。 弟子たちは「面白くない顔」(^_^;) 弟子たちがイエスさまがお喜びにならないと思う事でも、実は弟子たちをお喜びにならないことがある。 イエスさまは母親の祈りを聞いておられる。そして引き寄せておられる。 なぜか、父親と書いていない(^_^;)

第68章 外庭で

「 「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシャ人がいた。彼らはガリラヤのべッサイダ出であるピリポのところにきて、『君よ、イエスにお目にかかりたいのですが』と言って頼んだ。ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた」(ヨハネ12:20~22)。    この時、キリストの働きは残酷な敗北の様子を示していた。キリストは、祭司たちやパリサイ人たちとの論争に勝利されたが、彼らからメシヤとして受け入れられないことは明らかであった。最後的な分離がきていた。弟子たちにはこの問題が絶望的に思えた。しかしキリストはこ自分の働きを完成しようとしておられた。ユダヤ国民ばかりでなく、全世界にとって関係のある大事件がまさに起ころうとしていた。キリストは、世の人々の飢えた叫びを反響している「イエスにお目にかかりたいのですが」という熱心な願いを聞かれると、お顔が明るく輝き、「人の子が栄光を受ける時がきた」と言われた。ギリシャ人たちの願いの中に、主はご自分の大いなる犠牲の結果についての保証をごらんになった。 」 イエスさまのお働きが残酷な敗北の様子???  弟子たちにはこの問題が絶望的??? という事は残酷は敗北に見えることも、絶望的に思えることにも、大きな希望があることをはっきりと示しています 外庭で そこは異邦人のための場所 教会の中で残酷な敗北と見えることでも、絶望的に思えることも、世界伝道に大きな希望があります 「キリストの生涯の初めに東方から博士たちがやってきたように、キリストの生涯の終わりに、このギリシヤ人たちは救い主をみいだすために西方からやってきた。キリストがお生まれになった時、ユダヤ人は自分たちの野心的な計画に夢中になっていたので、キリストの来臨を知らなかった。異教国のマギたちは、救い主を拝するためにささげ物をたずさえてうまぶねへやってきた。同様に、ギリシャ人たちは、世の諸国諸族諸民を代表してイエスに会いにやってきた。同じように全地の各時代の人々は、救い主の十字架に引きよせられるのである。同じように「多くの人が東から西からきて、天国で、あぶらはむ、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」のである(マタイ8:11)。」 この数人??ギリシャ人の方々はなんと!世の諸国諸族諸民を代表していました 数人でも代...

第43章 打破された壁

「 その向こうには地中海の青海原があったが、この海を渡って、福音の使者たちは、世界の大帝国の中心に喜びのおとずれをたずさえて行くのであった。」 宣教は 喜びのおとずれ である 「彼女はこれまで異教の神々の助けを求めたが、何の安心 も得られなかった。時々彼女は、このユダヤ人の教師がわたしのために何ができるだろうかという考えにさそわれた。しかし、イエスに助けを求めた者は、金持ちであろうと、貧しい人間であろうと、あらゆる種類の病気をいやされるといううわさがたっていた。彼女はただ一つの望みを失うまいと決心した。」 イエス様は異教の神々に助けを求めた人でさえ、喜んで救ってくださる 「キリストはこの女の事情をご存知だった。主はこの女がご自分に会いたいと心から願っていることをお知りになって、彼女の道に身を置かれた。」 イエス様はイエス様に会いたいと心から願っている私たちの道に身を置いてくださる。 「イエスは、イスラエルの国のすぐ近くの都市や村々に見られる無知に弟子たちが気づくように望まれた。真理を理解するためにあらゆる機会を与えられている民が、周囲の人々の必要については何も知らなかった。暗黒のうちにある魂を助ける努力は何もなされていなかった。ユダヤ人としての誇りによって築かれたへだての壁は、弟子たちが異教の世界に同情するのさえさまたげていた。だがこうした壁は打破されるのであった。 」 イエス様は、無知に、周囲の人々の必要について 気づく、知るようにお望みになる。 「キリストは女の願いにすぐにはお答えにならなかった。」 イエスさまは願いにすぐにお答えにならないことがある。 「彼女のことばが耳にはいらなかったかのように、イエスが通り過ぎて行かれると、彼女はイエスについてきて願いつづけた。」 イエスさまは、私たちの祈りが耳にはいらなかったように、通り過ぎて行かれることがある。 「女は、キリストの足下にひれ伏して、ますます熱心に事情を訴え、「主よ、わたしをお助けください」と叫んだ(マタイ15:25)。イエスは、ユダヤ人の無情な偏見に従って、あいかわらず女のたのみをしりぞけるふうをして、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と答えられた(マタイ15:26)。このことは、恵まれている神の民に与えられた祝福を他国民や、イスラエルに国籍のない外国人に気前よく与えることは正当...

第40章 命の光

「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』」(ヨハネ8:12)。  やみのうちを歩くことがないように生きることはできる。可能である。 「神が民にご自身をあらわされる時には、いつも光が神のこ臨在の象徴であった。」 神さまのご臨在には「いつも」「光」が象徴。 「神は光である。「わたしは世の光である」とのみことばの中に、キリストは、ご自分が神と一つであられることと、全人類家族に対するご自分の関係とを宣言された。世の初めに「やみの中から光が照りいで」るようにされたのは、キリストであった(Ⅱコリント4:6)。キリストは、太陽と月と星の光である。キリストは、象徴と型と預言を通してイスラエルを照らした霊的光であった。だがこの光は、ユダヤ国民にだけ与えられたのではなかった。太陽の光線が地のすみずみにまで行きわたるように、義の太陽キリストの光は、一人一人の魂の上に照りいでるのである。 」 光はやみの中から照りいでる。 「全人類家族」 「ひとり一人の魂の上に照りいでる」 全人類の書いてあるので例外がない。 「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」 神さまは 人々に神の子となる「力を」お与えになられる。 「年老いたシメオンは、キリストがその時教えておられた宮の中で、イエスのことを「異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光」であると言った(ルカ2:32)。」 生まれたばかりのイエス様はこの時も宮の中で教えておられた。 「聖霊は、預言者イザヤを通してこう宣言された、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」(イザヤ49:6)。この預言はメシヤについて言われたものと一般に理解されていたので、イエスが「わたしは世の光である」と言われた時、人々は、イエスがご自分のことを約束のメシヤであると主張しておられるのだと認めることができた。」 イエス様にとっては「いとも軽い事」 「もし彼らの心が神の愛に向かって開かれていたら、彼らはイエスを受け入れていたであろう。」 もし自分が神さまの愛...

第31章 山上の垂訓

「キリストは、ご自分の言葉をきかせるために、弟子たちだけをお集めになったことはめったになかった。主はいのちの道を知っている者だけを聴衆としてお選びにならなかった。無知とまちがいの中にある大衆の心に訴えることがイエスの働きであった。主は真理についての教えを人々のにぶい理解力でわかる範囲でお教えになった。イエスご自身が真理であって、彼は腰に帯をしめ、祝福するためにいつでも手をさし出して立ち、みもとにくるすべての者を、戒めと訴えと励ましのことばをもって、高めようとされた。 」 イエスさまは クリスチャンだけをお集めになられることはめったにない。 鈍い理解力にわかりやすい言葉でお語りになられる いつでも手を差し出して立たれる みもとに来る「すべての者」 「山上の垂訓は特に弟子たちに与えられたものであったが、それは群衆の聞いているところで語られた。」 イエス様はクリスチャンにお語りになられることを群衆のきいているところで語られる。 「弟子たちの場所は、いつもイエスの隣だった。人々は絶えずイエスのそばに押しよせたが、弟子たちは、イエスの前から押し出されてはならないことを知っていた。彼らはイエスの教えを一言葉も聞きもらさないように、イエスのすぐそばにすわった。彼らは、すべての国すべての時代に知らせる真理を理解しようと、熱心に注意深く耳をかたむけた。」 クリスチャンはいつもイエス様の隣にいなければならない。 すべての国、すべての時代に知らせる真理を理解しようとしていた 「キリストは世俗的な偉大さへの望みをくじかれた。 山上の垂訓の中で、キリストは、まちがった教育によってなされた働きをもと通りにし、キリストのみ国とご自身の品性について、正しい観念を聴衆に与えようとされた。しかし彼は民の間違いを直接に攻撃されなかった。イエスは、罪のために世の人々がおちいっている不幸をごらんになったが、その悲惨な状態をまざまざと彼らの前にえがいてみせるようなことをされなかった。イエスは彼らが知っていたものよりももっと無限にすぐれた何ものかを彼らにお教えになった。神のみ国についての彼らの考え方と戦おうとしないで、イエスはそこへ入る条件を彼らに語り、み国の性質については彼らが自分で結論をひき出すのにまかされた。イエスのお教えになった真理は、イエスについてきた群衆に劣らずわれわれにとっても重要である。...

第22章 「あなたがたの手で食物をやりなさい」

「だが群衆は、天来の教師イエスの姿がみえなくなったとたんに、「イエスはどこにおられるのか」とたずねた。」 人々はイエス様を探している。あなたはどこにおられるか知っているだろうか。 「キリストが岸にお着きになる前に、群衆がイエスを待っていた。しかしイエスは、彼らに見られないように上陸して、弟子たちと一緒に人々を離れてしばらくの時間を過ごされた」 イエス様は見られないように上陸されることがある 「するとイエスの心は、同情に動かされた。邪魔をされ、休息を奪われても、イエスは短気を起こされなかった。」 「人々は、祭司たちと役人たちからは何の助けも受けなかった。しかしキリストが群衆に救いの道をお教えになった時、いやしを与えるいのちの水がキリストから流れ出た。」 聖書を語っていても 何の助けも受けない場合がある。イエスさまには命の水がある。 「彼らは恵み深いことばを聞いたが、それは単純で、率直で、彼らの魂にとってギレアデの香油のようであった。」 イエス様の御言葉は複雑じゃない。 「その日は彼らにとって地上の天国のように思われ、」イエス様と一緒にいるときは天国のように思われる。朝から日が沈みかけるまで、食事もしないのに、何時間立ち続けても、、「1度も腰をおろそうと考えたことも」なく、赤ん坊を抱えていた母親もいたのに、幸せだった 何時間の集会だったのだろう。 「ついにその日もほとんど過ぎ去った。太陽は西に沈みかけていたが、まだ人々は立ち去りかねていたイエスは、終日、食事も休息もとらずに働かれた。イエスが疲れと空腹で青い顔をしておられたので弟子たちは働きをやめてくださいとたのんだ。しかしイエスは、まわりにつめかけている群衆から退くことがおできにならなかった。 」 イエス様は一日中食事も急速なしに働かれた。 イエスさまにはおできにならないことがあった。「群衆から退くことがおできにならなかった。」 「それからイエスは、弟子たちに、人々の秩序を保っためと、イエスがしようとしておられることがみんなに見えるように、50人か100人ずつの組にして草の上にすわらせるようにお命じになった。」 イエス様は秩序を大切になさる。またイエス様がしようとしておられることがみんなに見えるようになさる。 「人々に平和と幸福とを手に入れる方法をお教えになったイエスは、彼らの霊的必要と同じに、物質的必要も思いやられた...