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第74章 ゲッセマネ 

 「救い主は弟子たちとつれだって、ゆっくりゲッセマネの園の方へ進んで行かれた。雲のない空には過越の満月が輝いていた。旅人たちが天幕を張った町はひっそりと静まっていた。」 コメント イエスさまはゆっくり進んでいかれた。弟子たちにお語りになられたいことがたくさんあられたのかも。。。 その日は雲のない満月だった  「イエスは弟子たちと熱心に語り、彼らを教えておられた。しかしゲッセマネに近づかれると、主は妙にだまってしまわれた。イエスは瞑想と祈りのためにこの場所にたびたびこられた。しかし最後の苦悩のこの夜ほど、イエスの心が悲しみに満ちていたことはなかった。地上での一生のあいだ、イエスは神のこ臨在の光のうちを歩まれた。サタンの精神を吹き込まれている人たちとの戦いに、イエスは、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」と言うことがおできになった(ヨハネ8:29)。しかし今イエスは、神のささえの臨在という光からしめ出されているようにみえた。いまイエスは「とがある者と共に数えられた」(イザヤ53:12)。堕落した人類の罪をイエスがお負いにならねばならない。罪を知らなかったお方の上にわれわれの全部の罪とががおかれねばならない。罪が非常に恐るべきものに見え、イエスの負われねばならない不義の重荷があまりに大きいので、イエスは、そのため天父の愛から永遠にしめ出されるのではないかという恐れにさそわれる。罪とがに対する神の怒りがどんなに恐るべきものであるかを感じて、イエスは、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と叫ばれる(マタイ26:38)。 とてもコメントできない 「園に近づくと、弟子たちは、主にあらわれた変化に気がついた。イエスがこんなにひどく悲しみ、だまっておられるのを、彼らはこれまで見たことがなかった。イエスが進んで行かれるにつれて、このふしぎな悲しみは一層深くなった。しかし彼らはその原因について、イエスにあえてたずねようとしなかった。イエスのお体はいまにも倒れるかのように揺れた。」 コメント 弟子たちは 「妙にだまってしまわれた」「だまっておられるのを、これまで見たことがなかった」 イエスさまは、よく話される御方。イエスさまは陰鬱な暗い御方はない。 「ル...

第4章 あなたがたのために救い主が

 「栄光の王キリストはいやしい身となって人性をおとりになった。地上における主の環境はみすぼらしくて、見込みがなかった。外観の威光が人をひきつける対象となることがないように、キリストの栄光はおおわれた。主は外面的な見せびらかしをいっさい避けられた。富や世俗的な栄誉や人間的な偉大さは決して魂を死から救うことができない。イエスは現世的な性質を持った引力によって人々をご自分の側にひきよせることがないようにと意図された。天の真理の美しさだけが、イエスに従おうと思う者をひきつけなければならない。メシヤの性格は長い間預言を通して予告されていたので、キリストは人々が神のみことばのあかしにもとづいてキリストを受け入れるようにお望みになった。」 コメント いやしい身 とはっきり書いてある。 みすぼらしい、見込みがない。 「あなたがたのために救い主が」 いやしい・・・みすぼらしい、・・・見込みがない・・・自分のところ来られるため。 驚異的な愛である。 イエスさまは外観の威光が人をひきつける対象となることがないようにされる。 外面的なみせびらかしは「いっさい」避けられた。現世的な引力によって人々をひきよせられない。 神さまは、伝道でもそうなさる。 富や世俗的栄誉、外観的偉大さは「決して」魂を死から救うことができない。 天の真理の美しさ「だけ」がイエス様に従おうと思う者をひきつけなければならない。 「神のみことばのあかしにもとづいて」 本当にびっくりする・・・真理の「美しさ」・・・その宝石の美しい輝きだけ。 王の威光でもなく、勝利の凱旋でもなく、弟子たちの粗末な衣服をしかれたロバの子に乗られるイエスさま美しさだけ。 驚かない人がいるのだろうか。 「天使たちは、あがないのすばらしい計画に驚嘆した。彼らは人性という衣を着られたみ子を神の民がどのように受け入れるかを見ようとして見守っていた。天使たちは選民の地へやってきた。他の国々では作り話が教えられ、偽りの神々が礼拝されていた。神の栄光があらわされ、預言の光が輝いている国へ天使たちはきた。彼らはエルサレムへ、神のみことばの解説者として任命されている人々のもとへ、神の家に仕えている人々のもとへと、人目につかないでやってきた。すでに祭司のザカリヤには、彼が祭壇の前で奉仕していた時、キリストの来臨が間近に迫っていることが知らされていた。すでに先...

第3章 時の満ちるに及んで

 「時の満ちるに及んで、神はみ子を……おつかわしになった。それは、律法の下にあるものをあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」(ガラテヤ4:4、5)。 コメント 神さまが、私たちに 子供としての身分をお与えになられた。これはなんということだろう。聖書にはっきり書いてある。なんという驚くべきことだろう。 律法の下 奴隷ではない。つまり強制ではない。つまり恐怖からでもない。 雇人でもない。つまり報酬としてではない。永遠の命を受けるから、従うわけでもない。 子供として神様に喜んで仕える。神さまの子。宇宙の王なる神さまが、ひとり子 イエス様を「そのために」お遣わしになられた。 イエスさまは長子とも書かれている。 なんという、驚くべきことだろう。 神さまに反逆し、罪しかできない人間、神さまを憎んでいた人間を、互いに憎みあっていた人間を、利得主義の人間に イエス様をお与えくださり、神さまの子と呼ばれ、神さまの子としての自由な人に造り変えてくださった。 「救い主の来臨はエデンで予告された。アダムとエバが初めてこの約束をきいた時、彼らはそれがすぐに成就されるものと期待した。彼らは最初に生まれたむすこをよろこんで歓迎し、その子が救い主であるようにと望んだ。しかし約束の成就は遅れた。この約束を最初に受けた人々はその実現をみないで死んだ。エノクの時代から、この約束は父祖たちと預言者たちを通してくりかえされ、救い主来臨の望みを生かしつづけたが、それでも救い主はおいでにならなかった。ダニエルの預言にメシヤ来臨の時期が示されたが、だれもがそのことぼを正しく解釈したわけではなかった。1世紀また1世紀と過ぎて行き、預言者たちの声はやんだ。圧制者の手はイスラエルに重く、多くの者は「日は延び、すべての幻はむなしくなった」といまにも叫ぶばかりであった(エゼキエル12:22)。  だが定められた広大な軌道にある星のように、神の目的は急ぐことも遅れることもない。大いなる暗黒とけむるかまどの象徴を通して、神はアブラハムに、イスラエルがエジプトで奴隷生活を送ることを示し、その滞在期間は400年であると宣言された。「その後かれらは多くの財産を携えて出てくるでしょう」と神は言われた(創世記15:14)。このことばに対して、パロが誇りとする帝国は、全力をあげて戦ったがむだだった...

第52章 良い羊飼い

 「「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。……わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はままた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」(ヨハネ10:11、14、15)。」 コメント イエスさまは私を知っている。私もイエス様ほどではないけれど、イエス様を知っている。イエス様がもう一度、天の雲に乗ってこの地上に来られるとき、全然知らない方ではないと思う。私が知っている御方がおいでになられる。 イエスさまは、私のために命を捨てる。それは今も同じ 。 「ふたたびイエスは、聴衆のよく知っている事がらについての連想を通して、彼らの心をとらえる道を見いだされた。イエスは、みたまの感化を、つめたい、清新な水にたとえられたことがあった。イエスはまた、ご自分が光であって、自然界にとっても人間にとっても生命とよろこびのみなもとであると言われたことがあった。いまイエスは、美しい田園的な描写をもって、イエスを信ずる者とご自分との関係を表現される。聴衆にとってこれほど見なれた光景はなかったので、キリストのみことばは、この光景を永遠にキリストご自身に結びつけた。弟子たちは、羊の群れを世話している羊飼たちを見ると、救い主の教訓を思い出さないではいられなかった。彼らは、一人一人の忠実な羊飼のうちにキリストを見るのであった。彼らは、たよっている無力な羊の群れの1頭1頭に、自分自身を見るのであった。 」 コメント イエスさまは、いつでも新鮮。新鮮な水、イエスさまは命、生きる理由、そしてうるわしい光、しかも私に耐えられる範囲で、美しく夜明けの光のようにやさしく輝かれる御方。 イエスさまは、喜び。イエス様がおられないと、何があっても喜びがない。大笑いしても虚しさが残る。本当の幸せにはなれない。 わたしは無力、良いものがない、まったくの無力。イエス様がとてつもなく大きなお力を持っておられるから。最も良いものを持っておられるから。 「預言者イザヤは、この譬をメシヤの使命にあてはめて、慰めのことばをこう語った。「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あ...

第78章 カルバリー   「わたしは限りない愛をもってあなたを愛してる」 

「 「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ……た」(ルカ23:33)。  「イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである」(ヘブル13:12)。神の律法を犯したために、アダムとエバはエデンから追放された。キリストはわれわれの身代りとして、エルサレムの境界の外で苦難を受けられるのであった。主は門の外で死なれたが、そこは重罪人たちと殺人者たちが処刑されるところであった。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」ということばには深い意味がある(ガラテヤ3:13)。」 深い意味とは何だろう。 イエス様の十字架は よく青銅の蛇に例えられる。  「そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章 なぜ、子羊の姿ではなく 蛇の姿なのだろう。 「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。」 イエス様が私たちの罪を全部背負って、蛇の姿を取られた。イエス様が呪いとなられた。これはなんということだろう。 「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。」 「どんな人間の発明によっても、罪を犯している魂を救う道をみいだすことはできない。「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」「悪い思い、すなわち、殺人、姦淫(かんいん)、不品行、盗み、偽証、誹(そし)りは、心の中から出てくるのである」(ローマ8:7、マタイ15:19)。流れが清くなるには、心の泉がきよめられなければならない。自分で律法を守る行為によって天国に入ろうとする者は不可能なことを試みているのである。律法的な宗教、敬虔の形だけを持っている者には安全がない。クリスチャンの生活は古い...

第56章 子供たちを祝福される

「イエスはいつでも子供を愛されるお方であった。イエスは彼らの子供らしい共感と、うちとけた気取らない愛を受け入れられた。彼らの純潔な口から出る感謝の賛美はイエスの耳には音楽にきこえ、狡猾(こうかつ)で偽善的な人たちと接触して心が重くなられた時、その精神を生きかえらせた。救い主はどこへ行かれても、そのおだやかな顔つきと、やさしく親切な態度によって、子供たちの愛情と信頼とをかち得られた。 ユダヤ人の間では、子供たちをラビのところにつれて行き、手をのせて祝福してもらう習慣があった。ところが救い主の弟子たちは、主が大事な働きをしておられるので、そんなことに邪魔されてはならないと思っていた。母親たちが、小さな子供たちをつれてイエスのところへやってくると、弟子たちは面白くない顔で彼らをながめた。彼らは、この子供たちがあまり幼いので、イエスのみもとにきても益を受けることはないと考え、主は子供たちがそばにくることをお喜びにならないと結論した。しかし主がお喜びにならなかったのは弟子たちのことであった。救い主は、子供たちを神のみことばに従って訓練しようとつとめている母親たちの心配と重荷を理解された。主は彼らの祈りを聞いておられた。主ご自身が彼らをみもとに引きよせられたのであった。 」  「イエスはいつでも子供を愛されるお方であった。」いつでも・・・時々ではない。 純粋な口から出る感謝の讃美はイエスさまの御耳には音楽に聞こえる。しかも、その精神を生きかえらされた。すごい! イエスさまは、どこへ行かれても、おだやかな顔つき、やさしく親切な態度。。。 弟子たちは「面白くない顔」(^_^;) 弟子たちがイエスさまがお喜びにならないと思う事でも、実は弟子たちをお喜びにならないことがある。 イエスさまは母親の祈りを聞いておられる。そして引き寄せておられる。 なぜか、父親と書いていない(^_^;)

第68章 外庭で

「 「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシャ人がいた。彼らはガリラヤのべッサイダ出であるピリポのところにきて、『君よ、イエスにお目にかかりたいのですが』と言って頼んだ。ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた」(ヨハネ12:20~22)。    この時、キリストの働きは残酷な敗北の様子を示していた。キリストは、祭司たちやパリサイ人たちとの論争に勝利されたが、彼らからメシヤとして受け入れられないことは明らかであった。最後的な分離がきていた。弟子たちにはこの問題が絶望的に思えた。しかしキリストはこ自分の働きを完成しようとしておられた。ユダヤ国民ばかりでなく、全世界にとって関係のある大事件がまさに起ころうとしていた。キリストは、世の人々の飢えた叫びを反響している「イエスにお目にかかりたいのですが」という熱心な願いを聞かれると、お顔が明るく輝き、「人の子が栄光を受ける時がきた」と言われた。ギリシャ人たちの願いの中に、主はご自分の大いなる犠牲の結果についての保証をごらんになった。 」 イエスさまのお働きが残酷な敗北の様子???  弟子たちにはこの問題が絶望的??? という事は残酷は敗北に見えることも、絶望的に思えることにも、大きな希望があることをはっきりと示しています 外庭で そこは異邦人のための場所 教会の中で残酷な敗北と見えることでも、絶望的に思えることも、世界伝道に大きな希望があります 「キリストの生涯の初めに東方から博士たちがやってきたように、キリストの生涯の終わりに、このギリシヤ人たちは救い主をみいだすために西方からやってきた。キリストがお生まれになった時、ユダヤ人は自分たちの野心的な計画に夢中になっていたので、キリストの来臨を知らなかった。異教国のマギたちは、救い主を拝するためにささげ物をたずさえてうまぶねへやってきた。同様に、ギリシャ人たちは、世の諸国諸族諸民を代表してイエスに会いにやってきた。同じように全地の各時代の人々は、救い主の十字架に引きよせられるのである。同じように「多くの人が東から西からきて、天国で、あぶらはむ、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」のである(マタイ8:11)。」 この数人??ギリシャ人の方々はなんと!世の諸国諸族諸民を代表していました 数人でも代...