第52章 良い羊飼い

 「「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。……わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はままた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」(ヨハネ10:11、14、15)。」

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イエスさまは私を知っている。私もイエス様ほどではないけれど、イエス様を知っている。イエス様がもう一度、天の雲に乗ってこの地上に来られるとき、全然知らない方ではないと思う。私が知っている御方がおいでになられる。

イエスさまは、私のために命を捨てる。それは今も同じ


「ふたたびイエスは、聴衆のよく知っている事がらについての連想を通して、彼らの心をとらえる道を見いだされた。イエスは、みたまの感化を、つめたい、清新な水にたとえられたことがあった。イエスはまた、ご自分が光であって、自然界にとっても人間にとっても生命とよろこびのみなもとであると言われたことがあった。いまイエスは、美しい田園的な描写をもって、イエスを信ずる者とご自分との関係を表現される。聴衆にとってこれほど見なれた光景はなかったので、キリストのみことばは、この光景を永遠にキリストご自身に結びつけた。弟子たちは、羊の群れを世話している羊飼たちを見ると、救い主の教訓を思い出さないではいられなかった。彼らは、一人一人の忠実な羊飼のうちにキリストを見るのであった。彼らは、たよっている無力な羊の群れの1頭1頭に、自分自身を見るのであった。 」

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イエスさまは、いつでも新鮮。新鮮な水、イエスさまは命、生きる理由、そしてうるわしい光、しかも私に耐えられる範囲で、美しく夜明けの光のようにやさしく輝かれる御方。

イエスさまは、喜び。イエス様がおられないと、何があっても喜びがない。大笑いしても虚しさが残る。本当の幸せにはなれない。

わたしは無力、良いものがない、まったくの無力。イエス様がとてつもなく大きなお力を持っておられるから。最も良いものを持っておられるから。


「預言者イザヤは、この譬をメシヤの使命にあてはめて、慰めのことばをこう語った。「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あなたがたの神を見よ』と、……主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ40:9~11)。ダビデは、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と歌った(詩篇23:1)。 」

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イエス様の福音は よきおとずれ イエスさまはやさしく導かれる。本当に乏しい事がない。


「聖霊はまた、エゼキエルを通して、こう言明された、「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる…彼は彼らを養う。……わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついた者を包み、弱ったものを強くし……、わたしは彼らと平和の契約を結び……、彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく……彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない」(エゼキエル34:23、16、25、28)。」


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失せたものを引き返し、傷ついた者を包み、弱ったものを強くし

この働きをする時に大きな喜びがある。イエス様が共にいらしてくださるからだろう。


「キリストは、これらの預言をご自分にあてはめ、ご自身の性格とイスラエルの指導者たちの性格との相違をお示しになった。パリサイ人たちは、キリストの力についてあえてあかしをたてたという理由で、1人の人間をかこいの中から追い出したばかりであった。彼らはまことの羊飼イエスがご自分のもとにひきよせようとしておられた魂を追い出した。このことによって、彼らは、自分たちにまかされている働きについて無知であることと、羊の群れの牧者として信任される価値のないことをばくろした。イエスは、いま彼らとまことの羊飼との相違を彼らの目の前に示し、ご自身を主の羊の群れのまことの番人としてさし示された。しかしイエスは、その前に、別な譬で、ご自分のことを語っておられる。」


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真の羊飼いとそうでない羊飼いには相違がある。

イエスさまは、うせたものを尋ね、

迷い出たものを引き返し、

傷ついた者を包み、

弱ったものを強くし される

そうでない羊飼いは 追い出す

弱った者を強くせず、

病んでいる者をいやさず、

傷ついた者をつつまず、

迷い出た者を引き返らせず、……彼らを手荒く、きびしく治め」る。


「イエスはこう言われた、「羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼である」(ヨハネ10:1、2)。バリサイ人たちはこのことばが彼らを非難して語られたことばであることに気がつかなかった、彼らがその意味を心の中でおしはかっていると、イエスは、はっきり彼らに言われた、「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出人りし、牧草にありつくであろう。 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:9、10)。 


キリストは神の囲いの門である。大昔から、神の子らはみなこの門を通って入って行った。イエスは、型に示され、象徴に予表され、預言者たちの啓示にあらわされ、弟子たちに与えられた教訓を通してあらわされているが、そのイエスのうちに、また人の子らのためになされた奇跡のうちに、彼らは「世の罪を取り除く神の小羊」を見(ヨハネ1:29)、また、イエスを通して、主の恵みという囲いの中につれてこられた。多くの人々が現れて、世の信仰の対象としてほかのものを示した。人々は、儀式や制度を作り出し、それによって義とされ、神とやわらいで、神の囲いに入ることを望んでいる。しかしただ一つの門は、キリストである。キリストの代りになるような何かを置いたり、何かほかの道から囲いに入ろうと試みた者は、みな盗人であり、強盗である。 


パリサイ人は門から入らなかった。彼らは、キリスト以外の方法で、囲いによじのぼって入ったのであって、真の羊飼の働きを果たしていなかった。祭司たちや役人たち、律法学者たちやパリサイ人たちは、生きた牧草地をだめにし、生命の水のみなもとをけがした。霊感のみことばは、こうした偽りの羊飼をありのままにこうえがいている、「あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、……彼らを手荒く、きびしく治めている」(エゼキエル34:4)。」


イエス様なしに、何かしようとすること、律法、清め、自己に死ぬ、自分を捧げる、ゆだねる、完全、義とされる、などなど、

「みな」つまりすべて盗人、強盗である。盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする

イエスさまは豊かに得させる

キリスト教という名がついていれば良いというものではない。

「(CNN) ロシア正教会トップのキリル総主教が、ウクライナとの戦争で死亡したロシア兵は全ての罪を清められると発言した。

キリル氏は25日の礼拝で、ウクライナ戦争で多数の死者が出ている現状に言及。「兄弟殺しの戦争で殺し合う兄弟が1人でも少なくなるよう、教会はこの戦いが可能な限り早く終わることを祈っている」と述べた。

一方で、ある人が職務を果たす義務感に突き動かされているのであれば、その人は天命に従い義務を全うすると述べ、「もし義務の遂行中に命を落とした場合、間違いなく犠牲に等しい行為になる。他人のために我が身を犠牲にしているのだ。こうした犠牲により全ての罪が洗い流されるものと確信している」と説いた。

キリル氏の発言に先立ち、ロシアのプーチン大統領は30万人以上の徴兵を目的とした国民の「部分的動員」を発表し、ウクライナ侵攻をエスカレートさせていた。」

CNN 2022.09.27 Tue posted at 23:30 JST より

https://www.cnn.co.jp/world/35193818.html

しかし、イエス様の門を通っていない。キリスト以外の方法。しかし、これは特別な事ではなく、今までたくさん教会からでさえ、言われている

「サタンは心霊術を通して人々の病気をいやし、もっと高尚な新しい信仰を提供すると称して、人類の恩人のように見せかける。だが同時に彼は破壊者として働く。彼の誘惑は多くの人々を破滅に導く。不節制が理性を王座から追い出し、肉欲の放縦、争い、流血が続く。サタンは戦争を喜ぶ。なぜなら戦争は、魂の最悪の激情をかきたて、悪と流血に染まった犠牲者たちを永遠に葬り去ってしまうからである。国々が互いに戦争を起こすように扇動するのがサタンの目的である。なぜなら、そうすることによって人々の心を、神の日に立つ備えの働きからそらすことができるからである。」各時代の大争闘

「こうして、フスとヒエロニムスを裏切ったジギスムントは、ボヘミアの王となり、ボヘミア人の権利を確保する誓約をしていたにもかかわらず、法王権を確立しようとした。しかし、ローマに屈服して彼の得たものはほとんどなかった。彼の生涯は、約二〇年にわたって、労苦と危険に満ちたものであった。長い無益な戦争のために、軍隊は弱くなり、国庫はからになった。そして、今、王にはなったが、一年で死んでしまった。国家が、今にも内乱が起こりそうになっている中で、彼は悪名を残して死んだ。」各時代の大争闘

「しかし皇帝は、一見勝利と思われたその瞬間に、敗北した。彼は、餌食が彼の手から逃れるのを見た。そして、滅ぼすことを自分の生涯の野心としていたその教義を、ついに承認しなければならなくなった。彼は、異端粉砕のために、王国と財宝と生命さえかけた。ところが、今や、彼の軍隊は戦いに疲れ、国庫は底をつき、多くの国々は革命に脅かされていた。他方、彼が弾圧しようとした信仰が、至るところで発展していた。カール五世は、全能者の力に対抗して戦っていたのであった。神は、「光あれ」と言われた。しかし皇帝は、暗黒のままにしておこうとした。彼のもくろみは破れた。皇帝は、長い戦いに疲れ、老齢でもないのに、王位を退き、修道院に引きこもった。」各時代の大争闘

ロシアはますます国力が落ちている。誰が喜んでいるだろうか。誰か気づかせる人はいないのだろう。

敵は血肉に対するものではない。サタンに対するものである。

「「門からはいる者は、羊の羊飼である」(ヨハネ10:2)。キリストは門であり、また羊飼である。主は1人でお入りになる。キリストが羊の羊飼となられるのはご自身の犠牲を通してである。「門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである」(ヨハネ10:3、4)。 

すべての動物の中で、羊は最も臆病で無力な動物の一種なので、東方の国では、羊飼はたえまなく、うむことなく、羊の群れを世話する。昔は、今と同じように、城壁をめぐらした町の外側は安全ではなかった。辺境をうろついている部族からの略奪者たちや、岩の間をかくれ場所にしている猛獣などが、羊の群れをあらそうとして待ち伏せていた。羊飼は、いのちがけの責任を自覚して見張った。ヤコブは、ハランの牧草地でラバンの羊の群れを飼ったが、自分自身のしんぼう強い働きを描写して、「昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした」と言った(創世記31:40)。少年ダビデが、1人で、ししと熊に出会い、盗まれた小羊をそのきばから救い出したのは、父の羊の番をしていた時であった。」

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今も危険はある。イエスさまはたえまなく、うむことなく、私たちを世話しておられる。

「羊飼が岩だらけの丘を越え、森林や荒れ果てた谷 を通って、羊の群れを草の多い川辺の安全な場所へ連れて行く時、また山の上で、淋しい夜の間、羊を盗賊から守り、病気の羊や弱い羊をやさしく世話しながら番をしている時、彼の生命は羊たちの生命と一体となる。一つの強いやさしいきずなによって、彼は、自分が世話をしているものに結びつけられる。羊の群れがどんなに大きくても、羊飼はどの羊も知っている。どの羊にも名前があって、羊飼が名前を呼ぶと答えるのである。」

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イエス様の命は、私たちの命と一体・・・驚くべきことである。

どんなに数が多くても、イエスさまはどの人も知っている。イエスさまは名前で呼ばれる。


「この世の羊飼が自分の羊を知っているように、天の羊飼イエスは、世界中にちらばっているご自分の羊の群れを知っておられる。「あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。イエスは「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。「わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」と言われる(エゼキエル34:31、イザヤ43:1、49:16)。」

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あなたの名前ではなく、あなた自身がイエス様のたな心に彫り刻まれている。書かれているのではない。書かれていれば消えてしまう。彫り刻まれているので消えることはない。彫り刻まれるには痛みが伴う。

十戒の第9章 偽証してはならないとお命じになった神さまご自身が、

あなたはわが羊、あなたの神、あなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ、と仰せになられる。自分自身を捧げられないと悩む必要はない。すでにあなたは神さまの者なのだから。

「外見上どんなにりっぱに律法をまもってみても、それは、単純な信仰と全的自己否定の代わりにはならない。しかし、人間は、自分で自分をむなしくすることはできない。ただキリストが働いてくださることに同意することができるに過ぎない。そうすれば魂は次のように言うようになろう。わたしは弱いのです。そして少しもキリストに似ていません。このようなわたしですが、どうぞお救いください。主よ、わたしの心をお受けください。わたしはこれをささげることはできません。これは、あなたのものです。どうぞきよく保ってください。これを、わたしが保っていることはできません。どうぞ、わたしを練り、形造り、清い聖なるふんい気の中に引き上げて、あなたの豊かな愛の流れが、私を通って流れ出るようにしてください。

 この自己否定は、クリスチャン生活の出発において行うばかりでなくて、天に向かって前進するごとに、新たにしなければならないのである。」

https://small-light-testimonies.blogspot.com/2013/02/blog-post_3.html

「イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じて心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イエスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいる一人一人の名前を知っておられる。イエスは、時々、ご自分のしもべたちに、どこそこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の1匹をさがしなさいと命じられた。」

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イエスさまは、わたしたちの住んでいる家を御存じ。一緒に住んでいる一人一人の名前をも御存じ。

イエスさまは、時々、私の羊の一匹を探しなさい、とお命じになられる。いつもではない。

どうかお用いください。

「一人一人は、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのように、よくイエスに知られている。一人一人の悲嘆はイエスの心を動かす。助けを求める叫びはイエスの耳に達する。イエスはすべての人をみもとに引きよせるためにおいでになった。イエスは彼らに、「わたしに従ってきなさい」とお命じになる。するとみたまが彼らの心に働いて、彼らがみもとにくるように引きよせる。多くの者は引きよせられるのをこばむ。イエスはそれがだれであるかをご存知である。イエスはまた、ご自分の呼び声をよろこんで聞いて、羊飼であられるイエスの守りに身をゆだねようとする者をご存知である。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」とイエスは言われる(ヨハネ10:27)。イエスは、この地上にほかにだれもいないかのように、一人一人を気づかわれる。」

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衝撃的なところ

イエスさまはあなたのために、あなたのためだけに死なれたかのように、イエスさまはあなたを知っている。

イエスさまは、あなたがあなた以外だれもこの地上にいないかのように、気遣われる。


「「彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。……羊はその声を知っているので、彼について行くのである」(ヨハネ10:3、4)。東方の羊飼は羊を追いたてない。彼は、暴力や恐怖心に訴えないで、自分が先に行って羊たちを呼ぶ。羊たちは、彼の声を知っているので、その呼び声に従う。救い主であられる牧者イエスも、これと同じように、ご自分の羊をとり扱われる。聖書に、「あなたは、その民をモーセとアロンの手によって羊の群れのように導かれた」といわれている(詩篇77:20)。預言者を通して、イエスは、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」と宣言しておられる(注・英語訳には、「それゆえ、わたしはやさしく親切にあなたを引きよせた」となっている。エレミヤ31:3)。イエスは、わたしに従いなさいと、だれにも強制されない。「わたしはあわれみの綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた」と、イエスは言われる(ホセア11:4)。」


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ここも衝撃的に驚くところ。イエスさまは 「誰も」私に従いなさい、と強制されない。それがどんなに栄光に富み、幸福に、喜びに溢れ、素晴らしい未来、祝福であるとしても。

ここが本当にすごい。すごすぎる!

「弟子たちがキリストに従うのは、罰を恐れるとか、永遠の報いを望むからではない。彼らは、ベツレヘムの馬ぶねからカルバリーの十字架にいたるまで、この地上における旅路を通じてあらわされた救い主の比類のない愛を見る。そのキリストのお姿が彼らをひきつけ、魂をやわらげ、征服するのである。イエスを仰ぎ見る者の心のうちに愛がめざめる。彼らはみ声を聞き、イエスに従うのである。」

自分に愛がめざめなかったら、どうしようと悩むこともあった。しかし、イエス様の愛、あなどるなかれ!それは比類のない愛である。


「羊飼が羊たちの前に行って、自分がまず道中の危険に遭遇するように、イエスもまたご自分の民に対して同じようになさる。「自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く」(ヨハネ10:4)。天への道は、救い主のみ足跡によってきよめられている。道はけわしく荒れているかもしれないが、イエスがその道を歩まれたのである。イエスの足は、ひどいいばらをふみつけて、われわれがその道を通りやすいようにされた。イエスは、われわれが負うように召されて いるどの重荷もご自分で負われた。」

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イエスさまの本当に驚くべき、すごいところは、人生のいかなる場面も、すでにその道をイエスさまは歩まれている事。こんな場所にもイエスさまはおられるのか、と驚きます。

アウシュビッツに入った方々でさえ、「イエスさまは、ここにもおられた」とあかしされます。

しかも、イエスさまはひどいいばらはすでに踏みつけられておられる。

「今イエスは、神のみもとにのぼって、神と共に宇宙の王座についておられるが、その慈悲深いご性質をすこしも失ってはおられない。今日も同じように、やさしい同情に満ちたイエスの心は、人類のすべての苦悩に向かって開かれている。刺されたみ手は、世にあるご自分の民をもっと豊かに祝福するために今日もさし出されている。「だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」(ヨハネ10:28)。キリストに献身した魂は、キリストの御目には、全世界よりもとうといのである。救い主は、ひとりがみ国に救われるためであっても、カルバリーの苦悩を経験されたであろう。主は、ご自分がそのために死なれた魂を決してお捨てにならない。イエスに従う者たちが自分からイエスを離れようとしない限り、イエスは、彼らを固くひきとめておられる。」


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ここも衝撃的に驚くところ。

イエスさまはもっと豊かに祝福されるために、いつか、ではなく今日も差し出されている。

キリストに献身した魂は イエス様の御目には「全世界よりも尊い。」

「救い主は、ひとりがみ国に救われるためであっても、カルバリーの苦悩を経験されたであろう。」

イエスさまは、あと80億人に人々が救われなくても、拒んでも、憎んでも、信じなくても、一人が救われるために十字架をお受けになられる。

主は、ご自分がそのために死なれた魂を決してお捨てにならない。

あなたが捨てられた、見捨てられた、私はダメ、と何千回思っても、イエスさまは決してお捨てにならない。動かない。岩なるイエスさまであられる。

「われわれには、どんな試練の時にも、決してわれわれを裏切られることのない助け主がいる。主は、われわれが誘惑に抵抗し、悪と戦い、ついには重荷と悲しみにおしつぶされてしまうがままに、放っておかれない。いまは、イエスは人間の目からかくされているが、信仰の耳は、イエスのみ声が、「恐れるには及ばない、わたしがあなたといっしょにいるのだ」と言われるのを聞くことができる。「(わたしは)また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である」(黙示録1:18)。わたしは、あなたの悲しみに耐え、あなたの戦いを経験し、あなたの誘惑に会った。わたしはあなたの涙を知っている。わたしもまた泣いたのである。人間の耳に聞かせられないほどの深い悲しみをわたしは知っている。あなたは、自分がうち捨てられた孤独な人間だと思ってはならない。この地上にはあなたの苦しみを心の琴線に感じてくれる人がなくても、わたしを見、そして生きなさい。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる」(イザヤ54:10)。」

コメント 言葉がない。

「羊飼は、自分の羊をどんなに愛しても、やはり自分の息子娘はもっとかわいいのである。イエスは、われわれの羊飼であるばかりでなく、われらの「永遠の父」であられる。だからイエスは、「わたしは……わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われる(ヨハネ10:14、15)。これは何というとうといみことばだろう。天父の愛されるひとり子、神が「わたしの次に立つ人」(ゼカリヤ13:7)と宣言されたお方、そのお方と永遠の神との間のまじわりをもって、キリストと地上の子らとの交わりを描写されるとは。」

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人はあまり驚かないが、エレンホワイトさんは驚嘆されている。

「これは何というとうといみことばだろう。」

わぁ!とびっくりするところ。アメージンググレース 聖書やあかしの書は、驚きの書物である。なので淡々と読んでいたら、何かを見失っている。祈って、深く掘り下げるべき。聖書は驚いて、びっくりして、驚嘆して、言葉を失って、絶句して学ぶ書物である。

「われわれは天父の賜物であり、イエスの働きの報いであるから、イエスはわれわれを愛されるのである。イエスは、われわれをご自分の子として愛される。読者よ、イエスはあなたを愛される。天そのものは、イエスよりも偉大なもの、イエスよりもよいものを与えることができない。だから信頼なさい。」

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コメントしてならないと思えるほど、すごいところ。

「イエスは、にせの羊飼によってまちがった道へ連れて行かれた全地の魂に思いをよせられた。イエスがご自分の牧場の羊として集めようと熱望された人たちが、狼の間にちりぢりになっていた。そこでイエスは、「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」と言われた(ヨハネ10:16)。 


「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)。すなわち、父はあなたを深く愛されたので、あなたをあがなうために自分の生命をささげたわたしをますます愛してくださるのである。わたしの生命をささげることによって、あなたの負債、あなたの罪とがを引き受けることによって、わたしがあなたの身代りまた保証となったために、わたしは父から愛されているのである。」

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オオカミのところにちりぢりになっている。


「「命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わ たしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」(ヨハネ10:17、18)。イエスは、人類家族の一員として死ぬべき身であられたが、一方また、神として世の人々のための生命の泉であられた。イエスは死の前進をとどめ、その主権の下に人ることをこばむこともおできになった。だが主は、生命と不死を明るみに出すために、自発的にご自分の生命をお捨てになった。イエスは、人類が永遠に滅びることがないように、ご自分が世の罪を負い、罪ののろいに耐え、ご自分の生命をいけにえとしてささげられた。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった……彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(イザヤ53:4~6)。 」








 






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