第4章 あなたがたのために救い主が
「栄光の王キリストはいやしい身となって人性をおとりになった。地上における主の環境はみすぼらしくて、見込みがなかった。外観の威光が人をひきつける対象となることがないように、キリストの栄光はおおわれた。主は外面的な見せびらかしをいっさい避けられた。富や世俗的な栄誉や人間的な偉大さは決して魂を死から救うことができない。イエスは現世的な性質を持った引力によって人々をご自分の側にひきよせることがないようにと意図された。天の真理の美しさだけが、イエスに従おうと思う者をひきつけなければならない。メシヤの性格は長い間預言を通して予告されていたので、キリストは人々が神のみことばのあかしにもとづいてキリストを受け入れるようにお望みになった。」
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いやしい身 とはっきり書いてある。
みすぼらしい、見込みがない。
「あなたがたのために救い主が」
いやしい・・・みすぼらしい、・・・見込みがない・・・自分のところ来られるため。
驚異的な愛である。
イエスさまは外観の威光が人をひきつける対象となることがないようにされる。
外面的なみせびらかしは「いっさい」避けられた。現世的な引力によって人々をひきよせられない。
神さまは、伝道でもそうなさる。
富や世俗的栄誉、外観的偉大さは「決して」魂を死から救うことができない。
天の真理の美しさ「だけ」がイエス様に従おうと思う者をひきつけなければならない。
「神のみことばのあかしにもとづいて」
本当にびっくりする・・・真理の「美しさ」・・・その宝石の美しい輝きだけ。
王の威光でもなく、勝利の凱旋でもなく、弟子たちの粗末な衣服をしかれたロバの子に乗られるイエスさま美しさだけ。
驚かない人がいるのだろうか。
「天使たちは、あがないのすばらしい計画に驚嘆した。彼らは人性という衣を着られたみ子を神の民がどのように受け入れるかを見ようとして見守っていた。天使たちは選民の地へやってきた。他の国々では作り話が教えられ、偽りの神々が礼拝されていた。神の栄光があらわされ、預言の光が輝いている国へ天使たちはきた。彼らはエルサレムへ、神のみことばの解説者として任命されている人々のもとへ、神の家に仕えている人々のもとへと、人目につかないでやってきた。すでに祭司のザカリヤには、彼が祭壇の前で奉仕していた時、キリストの来臨が間近に迫っていることが知らされていた。すでに先駆者が生まれ、その使命は、奇跡と預言とによって証明されていた。この先駆者が生まれたという知らせと、彼の使命のすばらしい意義が広く伝えられていた。しかしエルサレムは救い主を迎える備えをしていなかった。」
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天使たちは「素晴らしい」計画に、驚嘆した。自分は驚嘆しているだろうか。
天使たちは、わたしたちがどのように受け入れるかを見守っている。
天使たちは人目につかないように来られる。
礼拝にも、教会にも、総会にも、小さな聖書研究にも。。。
奇跡と預言もあるし、広く伝えられていもする。しかし、エルサレムはイエス様を迎える準備をしていなかった。
「天の使者たちは、神が聖なる真理の光を世に伝えるために召された民の無関心を驚いて見た。ユダヤ国民はキリストがアブラハムの後裔(こうえい)としてダビデの家系からお生まれになることの証人としてとっておかれたのであった。それなのに彼らはキリストの来臨が間近に迫っていることを知らなかった。宮では、朝夕のいけにえによって毎日神の子羊キリストがさし示されていた。しかしそこでさえキリストを迎える備えができていなかった。祭司たちも国民の教師たちも、各時代を通じて最大の事件がまさに起ころうとしていることを知らなかった。彼らは、無意味な祈りをとなえ、人々にみせるために礼拝の儀式をと り行っていたが、富と世俗的なほまれを求めることにばかりあくせくとしていて、メシヤの出現に対する準備ができていなかった。同じような無関心がイスラエルの国じゅうにみなぎっていた。俗事に没頭している利己的な心は、全天を感動させているよろこびを感ずることができなかった。ほんのわずかな人たちだけが目に見えないお方にお目にかかるのを待ちこがれていた。この人たちのもとへ天の使者が送られた。」
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天使たちは、「無関心を驚いて見た」
イエス様の来臨は、各時代の最大の事件。
「無意味な祈り」というものが存在する。意味ある祈りが絶対に必要
富や世俗的なほまれをもとめることばかりあくせくしていると、無関心になる。
俗事に没頭していない、利己的ではない心だと、全天を感動させている喜びを感ずることができる。
ここが本当にすごい所。「人間でもその喜びを感ずることができる。」
備えとはなにか??どうしたら間近に迫っていることがわかるのか。
あかしの書は、条件とその答えがいつもセットに書かれている。
「目に見えない御方にお目にかかるのを待ち焦がれている」人々 ここにその答えがはっきり書いてある。
今週は「あなたは本当に待ち焦がれていますか」と神さまに問われたように思います。しかし、2月14日 今日はユナイテッドプレイヤーの司会で 「目に見えない神さまをこの目で見ることができますように、早く見ることができますように」と祈った時に深い感動がありました。この待ち焦がれる思いは 聖霊の神様が下さる心だと思う
「御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。」ヨハネの黙示録22章17節
私たちのするべきことは「来たりませ」と言いなさい。これだけなのか・・・
「愛は信心の基礎である。たとえ、口でなんと言おうと、もし、兄弟に対する無我の愛を持たないならば、神に対する純粋の愛を持っていない。しかし、他人を愛そうと努めることによって、この精神を得ることはできない。必要なのは、心の中にキリストの愛が宿ることである。自己がキリストの中にとけこむ時、愛は自然にわいて出る。他を助け、祝福しようとする気持ちが常に内からわき出て、天からの光が心にあふれ、顔に表される時、クリスチャンの品性が完成の域に達するのである。」 キリストの実物教訓 第27章 わたしの隣人とはだれのことですか
「天使たちは、ヨセフとマリヤがナザレの家からダビデの町へ旅をしているのにつきそっている。ローマ帝国の広大な領土の民族を登録する法令がガリラヤの山間の住民たちにまで及んだ。昔イスラエル人の捕虜を解放するためにクロスが世界帝国の王位に召されたように、シーザー・オーガスタスは、イエスの母をベツレヘムに行かせることによって、神の御目的を成就する代理者とされる。マリヤはダビデの家系なので、ダビデの子はダビデの町で生まれねばならない。ベツレヘムから「イスラエルを治める者が……出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」と預言者は言った(ミカ5:2)。しかしこのダビデ王の家系の町で、ヨセフとマリヤはみとめられもしなければ、とうとばれもしない。疲れはてて家もなく、彼らはその晩休むところを求めて、都の門から町の東端まで、せまい通りをむなしく歩きつくす。満員の宿屋には彼らを泊める部屋がない。彼らはっいに動物を入れてあるそまつな小屋の中に宿る場所を見いだし、ここで世の救い主がお生まれになる。」
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世界の王や政治家、大統領、首相が気まぐれに動いているように見えながら、一種税金の制度でさえ、神さまの道具になることがある。預言の目で見ていることが重要。
みとめられもしなければ、尊ばれもしない、疲れ果てて、休むこともない現実の中に、救い主がおいでになられる。
日常生活を尊いものにするために救い主が来られた。イエス様が来られるとこの地上は尊くなる。これが本当にすごい。すごすぎる。
「人々はそのことを知らないが、天はこの知らせを聞いてよろこびに満たされる。光の世界の天使たちは一層深くやさしい関心をもって地にひきつけられる。全世界はイエスがおいでになることによって輝きを増す。ベッレヘムの丘の上空には無数の天使の群れが集っている。彼らは喜びのおとずれを世に宣伝してもよいとの合図を待っている。もしイスラエルの指導者たちが義務に忠実だったら、イエスの誕生を布告する喜びにあずかることができたのである。しかしいま彼らは無視される。」
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人は知らないが、天が喜びに満たされることがある。
全世界はイエスさまがおいでになることによって輝きを増した。その光を見た人がどのくらいいただろうか。
天使たちにとって福音宣教は喜びのおとずれ、宣伝してよいという合図を今か、今かと待つ。しかし、イスラエルの指導者たちは、この喜びにあずかれない。
もちろん、彼らは一人の改宗者を得るために、自分より倍ひどい地獄の子にするために 宣教はしていた。しかし、彼らは「喜びのおとずれ」ではなかった。義務に忠実ではなかった。
わあ!
「神は「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ」、「光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる」と宣言される(イザヤ44:3、詩篇112:4)。光を求めている者に、そしてそれをよろこんで受け入れる者に、神のみ座からの輝かしい光が照りかがやくのである。」
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ここにも答えが書いてある。光を求めている人。よろこんで受け入れる者。
そうすれば神のみ座からの輝かしい光が照り輝く
「ダビデがかつて羊の群れをつれて歩いた野で、羊飼たちはまだ夜の見張りをつづけていた。その静かな時間に、彼らは約束の救い主について語り合い、ダビデの王座に王なるキリストがおいでになるように祈っていた。すると見よ、「主のみ使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。み使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである』」(ルカ2:9~11)。 」
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どうしたら「この」羊飼いたちのようになれるか、エルサレムのようにならなくてすむのか、答えが書いてある。
彼らは仕事中に、夜勤中に、
「彼らは約束の救い主について語り合い、ダビデの王座に王なるキリストがおいでになるように祈っていた。」
「見よ」、見なければならない。
すべて民に与えられる大きな喜び すべての民とあって、ここに例外がない。小さな喜びではなく、大きな喜びである。イエス様のメッセージは大きな喜びである。
これを「あなたがたに伝える」 え~???と驚く、驚きのメッセージである。
「「このことばに、栄光の光景が、聞いている羊飼たちの心を満たす。イスラエルに救い主がおいでになったのだ。権力と栄誉と勝利が主の来臨に連想されている。しかし天使は、彼らが貧しさとはずかしめのうちにあられる救い主をみとめるように彼らを準備させねばならない。「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」と天使は言う(ルカ2:12)。
天の使者は彼らの恐れを静めた。彼はどうしたらイエスに会えるかを教えた。人間の弱さに対する思いやりから、彼は羊飼たちが天来の輝く光になれるように間をおいた。それから歓喜と栄光はもうかくしきれなかった。平原全体が神の軍勢の輝く光に照らされた。地は静まり、天は低くたれて歌をきいた。
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるよりに」」
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天使の方々はおやさしい。「どうしたらイエスさまにお会いできるか」をお教えになられる。イエスさまを認めることができるように準備させてくださる。
栄光の主が貧しさとはずかしめのうちにある私たちの所へ来られる。驚異的に驚く場面である。
どうしたらイエスさまにお会いできるか・・・
「これはキリストが臆病な者、疑う者、恐れおののく者のためにお勧めになった処方である。主の御前を悲しげに歩む悲嘆にくれた人々は立ち上がり、助けを必要としている人を助けよう。」―教会へのあかし・第6巻・266ページ
「聖霊は、隣人に与えるために命のパンを求めている人々みんなに臨む」~教会へのあかし・第6巻・90ページ~
「みんなに」ここに例外がない。
「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」マタイによる福音書25章
貧しさのなかに・・・空腹なところに、渇いている魂に、旅人に、裸や病気、牢獄・・
もちろん物質的な事、また心のこともあると思う。
なので、この地上は捨てたものではない。天国はこの地上で始まる。
「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか」とキリストは言われた(マルコ4:30)。キリストはこの世の国を用いて神の国をあらわすことはできなかった。神の国に匹敵するものを、社会の中に見つけることはできなかった。地上の王国は、優勢な権力によって治めるが、キリストの国では、武器や抑圧の道具がことごとく消し去られている。神の国は人間を高め、高貴にする。神の教会はさまざまな賜物に満ち、聖霊を受けてきよい生涯を送るものの宮廷である。教会員たちは、自分たちが助け祝福するものの幸福の中に、自分たちの幸福を見つけるのである。 艱難から栄光へ 第1章 人類救済への神の計画
「ああ、今日、人類家族がその歌をみとめることがで きるように。その時なされた布告、その時うたわれた歌の調べは、世の終りまで高まり、地のはてまでひびき渡るのである。義の太陽キリストが、翼にいやしのカをそなえて昇られる時、その歌は、大水のひびきのように、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる」と声をあげる大群衆によってふたたびうたわれるのである(黙示録19:6)。」
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歌の調べは 世の終わりまで高まっていく。地の果てまで響き渡る。
低まっていく、響き渡らないと思うのは間違い
ただ、それを「認める」ことができるかは、その本人による。認めることができるように。
「天使たちが姿を消すにつれて光はうすれ、夜の影がもう1度ベツレヘムの丘に落ちた。しかし人間の目がかつて見た最も輝かしい光景は羊飼たちの記憶に残った。「み使たちが彼らをはなれて天に帰ったとき、羊飼たちは『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか』と、互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた」(ルカ2:15、16)。」
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人の目が見た最も輝かしい光景だった。
「捜しあてた、」
結構捜したのかもしれない。なかなか見つからなかったかもしれない。神さまの御約束の通りに、捜すことはとても重要。
「羊飼たちは、非常によろこんで出かけ、自分たちの見たり聞いたりしたことを告げ知らせた。「人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤはこれらのことをことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」(ルカ2:18~20)。」
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ここが大変需要。彼らは自分たちだけにしまっておかなかった。
「非常によろこんで出かけ」彼らは「非常に喜んで福音を伝える人々だった」
夜に???
しかも、神さまを、あがめ、また賛美していた。
「今日、天と地は、羊飼たちが天使たちの歌をきいた時よりも広いへだたりがあるのではない。人類はいまもなお、普通の職業についている普通の人たちが昼間天使たちと会い、ぶどう園と畑で天の使者たちと語った時と同じに、天の関心のまとである。人生の平凡な世渡りをしているわれわれにとって天は非常に近いことがある。天の宮廷からの天使たちは、神が命じられるままに動きまわる人たちの歩みにつきそりであろう。」
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ここがあかしの書のすごいところ。
ああ、いいな、その時は良かった、いつかそうなればいいな、
過去や未来だけではなく、今、現実の世界でもそれが可能であると語る。ここが聖書とあかしの書のすごいだと思う。
いまもなお・・・普通の職業、普通の人たち、しかも「昼間」 平凡な中に・・・
どうしたら・・・・
ここにも答えがある。「神が命じられるままに動きまわる人たち」
なので、毎日、自分たちのだけでなく、家族は周りの人々に、聖霊のご臨在を祈り、神さまが御命じになられるままに動くことができるように祈る必要がある。
本人が認められないこともある。神様が目を開いて認めることができますように。
「ベツレヘムの物語はつきない話題である。その中に、深い「神の知恵と知識との富」がかくされている(ローマ11:33)。天の王座をうまぶねと、敬いしたう天使たちを畜舎の動物たちととりかえられた救い主の犠牲にわれわれは驚くのである。この救い主の前に出ると、人間の誇りと自己満足が責められる。しかもこの犠牲は、救い主の驚くべきへりくだりのはじまりにすぎなかった。アダムがエデンで罪を知らなかった時でさえ、神のみ子が人の性質をおとりになることは無限の屈辱に近かった。ところがイエスは人類が4000年にわたる罪によって弱くなっていた時に人性をおとりになったのである。アダムのすべての子らと同じように、イエスは遺伝という大法則の作用の結果をお受けになった。そのような結果がどういうものであるかは、イエスのこの世の先祖たちの歴史に示されている。主は、われわれの苦悩と試みにあずかり、罪のない生活の模範をわれわれに示すために、このような遺伝をもっておいでになったのである。」
ここの話題は尽きない。
かくされているから、見えるように求め、祈り、探す必要がある。
「われわれは驚くのである。」エレンホワイトさんも大いに驚いている。私たちは驚いているだろうか。
「アダムがエデンで罪を知らなかった時でさえ、神のみ子が人の性質をおとりになることは無限の屈辱に近かった。」
単なる屈辱ではない・・・無限の屈辱・・・
遺伝は大法則である。イエスさまはその結果もおとりになられた。言葉がない。
「サタンは天にいた時、神の宮廷におけるキリストの地位のことでキリストを憎んでいた。彼は自分自身がその地位から退けられると、ますますキリストを憎んだ。彼は罪人である人類を救うことを誓われたお方を憎んだ。それでも神は、サタンが主権を主張しているこの世へ、み子イエスが人間の弱さを受けつぐ無力な赤ん坊としておいでになることをお許しになった。神はイエスが、すべての人と同じように人生の危険に会い、すべての人間と同じに失敗と永遠の損失をかけて戦われることをお許しになった。」
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罪には理由がない。憎しみには理由がない。いろいろ理由をつけようとするが、それを「言い訳」と呼ぶ。罪には理由がない。
この憎しみの中に無力な赤ん坊としておいでになることをお許しになった
すべての人に人生の危険がある。失敗と永遠の損失をかけた戦いがある。
「人間の父親の心は自分の子供の上にそそがれる。彼は幼い子供の顔に見入り、人生の危険を思ってふるえる。彼は自分のかわいい子をサタンの力から守り、誘惑と戦いに会わせたくないと熱望する。神は、われわれの幼な子たちのために、人生の道を安全にするために、ご分のひとり子を、もっとはげしい戦いと、もっと恐ろしい危険に会わせるためにお与えになった。ここにこそ愛がある。ああ、もろもろの天よ、驚嘆せよ。ああ、地よ、おどろけ。」
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文章のままで十分、コメントしてはいけないと思うくらい、すごいところ。
聖書やあかしの書は、驚嘆し、驚く宝の山である。アメージンググレースである。
そうでないなら、何かがおかしい・・・
聖書やあかしの書は変わらない。とすると驚かないなら、何か自分の心がおかしい???
これはかなり悩んだ問題。う~んと悩んでも何も出ない。しかし、あかしの書にはすでに答えは書いてある。ここがあかしの書のすごい所。答えはすでに書いてある。答えを求めながら、捜しながら、門をたたきながら読むと 受け、見出し、開けてもらえる。
しかも、「羊飼たちは、非常によろこんで出かけ、自分たちの見たり聞いたりしたことを告げ知らせた」が重要。
良かった、素晴らしかった、驚いた、感動した、で終わると次の日、もしかしたら、その日の午後、それが残っていないことがある。
自分が感動する、自分が受ける、より
「隣人に分け与えるために命のパンを求める」「直ちに分け与える」ここがとても重要なのだろう。
各時代の希望 宝の山です
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