第40章 命の光
「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』」(ヨハネ8:12)。
やみのうちを歩くことがないように生きることはできる。可能である。
「神が民にご自身をあらわされる時には、いつも光が神のこ臨在の象徴であった。」
神さまのご臨在には「いつも」「光」が象徴。
「神は光である。「わたしは世の光である」とのみことばの中に、キリストは、ご自分が神と一つであられることと、全人類家族に対するご自分の関係とを宣言された。世の初めに「やみの中から光が照りいで」るようにされたのは、キリストであった(Ⅱコリント4:6)。キリストは、太陽と月と星の光である。キリストは、象徴と型と預言を通してイスラエルを照らした霊的光であった。だがこの光は、ユダヤ国民にだけ与えられたのではなかった。太陽の光線が地のすみずみにまで行きわたるように、義の太陽キリストの光は、一人一人の魂の上に照りいでるのである。 」
光はやみの中から照りいでる。
「全人類家族」 「ひとり一人の魂の上に照りいでる」
全人類の書いてあるので例外がない。
「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」
神さまは 人々に神の子となる「力を」お与えになられる。
「年老いたシメオンは、キリストがその時教えておられた宮の中で、イエスのことを「異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光」であると言った(ルカ2:32)。」
生まれたばかりのイエス様はこの時も宮の中で教えておられた。
「聖霊は、預言者イザヤを通してこう宣言された、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」(イザヤ49:6)。この預言はメシヤについて言われたものと一般に理解されていたので、イエスが「わたしは世の光である」と言われた時、人々は、イエスがご自分のことを約束のメシヤであると主張しておられるのだと認めることができた。」
イエス様にとっては「いとも軽い事」
「もし彼らの心が神の愛に向かって開かれていたら、彼らはイエスを受け入れていたであろう。」
もし自分が神さまの愛に向かって開かれていたら、イエス様を受け入れる。神さまの愛に向かって開かれていることが大切
「 神に献身しようとしない魂はみな、別の権力の支配下にある。彼は彼自身のものではない。彼は自由を口にするかも知れないが、最もあわれむべき奴隷状態にある。彼の心はサタンの支配下にあるので、真理の美しさを見ることがゆるされない。彼は、自分自身の判断の命令に従っているとうぬぼれているが、実は暗黒の君の意思に従っているのである。」
自分が自由だと思っていても、自由がいいと思っていても、自分自身の判断に命令に従っていると思っていても、実は暗黒の君の医師に従っている。
「 あがないの働きに強制はない。外部からの圧力は用いられない。神のみたまの影響下にあって、人はだれに仕えるかを自由に選ぶことができる。魂がキリストに屈服する時に行われる変化の中に、最高の意味の自由がある。罪を追い出すことは、その魂自身の行為である。なるほどわれわれは、サタンの支配からわが身を解放する力はない。だが罪から解放されたいと望み、非常な必要を感じて、われわれ以外の、そしてわれわれ以上の力を求めて叫ぶ時、魂の能力には聖霊の天来の力が吹きこまれ、その能力は神のみこころを成就することにおいて意思の命令に従うのである。 」
神さまのとてもありがたいお約束
「イエスは、ユダヤ人がアブラハムの子であることを否定された。「あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っている」とイエスは言われた(ヨハネ8:41)。彼らは嘲笑して、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」と答えた(ヨハネ8:41)。このことばは、イエスの生れについての事情をそれとなく指していて、イエスを信じ始めた人たちのいる前でキリストに打撃を与えるつもりで言われたのであった。イエスは、この卑劣なあてこすりに注意を払わないで、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ」と言われた(ヨハネ8:42)。」
イエスさまは、打撃を与えるつもりで言われた、卑劣なあてこすりを受けられた。
しかし イエスさまは注意を払われなかった。
「この教訓はいつの時代にも真実である。こじつけや、批判が好きで、神のみことばのうちに何か疑問となるようなものをさがしてばかりいる者は、そうすることが思想の自由と鋭い頭脳の証拠であると思っている。彼は、自分が聖書をさばいていると思っているが、事実は自分自身をさばいているのである。彼は、天に始まり永遠に及んでいる真理を理解することができないことをばくろしている。神の義という大いなる山の前にあって、彼の精神はおそれを感じない。彼は棒きれやわらくずをさがすのに忙しく、そのことによって狭い世俗的な性質、すなわち神を理解する能力を急速に失いつつある心をばくろしているのである。心が神の霊感に応じた人は、神についての知識を増すようなものや、品性をきよめ、高めるようなものを求める。花が、明るい光線によって美しい色合いに染まるために太陽に向かって開くように、魂は、天の光がキリストのご品性の恵みによって品性を美しくすることができるように、義の太陽に向かうのである。 」
神を理解する能力を急速に失いつつあるこころがある。
神さまは理解するのは能力。知識ではない。
「アブラハムは、約束の救い主を見たいと非常に望んでいた。彼は、自分が死ぬ前にメシヤを見ることができるようにと最も熱心な祈りをささげた。そして彼はキリストを見た。超自然の光が彼に与えられ、彼は、キリストのきよいご品性を認めた。彼はキリストの日を見、そしてよろこんだ。彼は、罪のための天来のいけにえを見せられた。」
アブラハムさんの最も熱心な祈りは自分が死ぬ前にキリストをみることができるように、だった。そしてイエス様を見ることができた。超自然の光が与えられた。
そしてイサクさんのモリヤの山の犠牲の実例が与えられていた
「この恐ろしい苦しみがアブラハムに負わされたのは、彼に、キリストの日を見させ、この世に対する神の愛、すなわちこの世を堕落からひきあげるためにひとり子を非常な屈辱的な死に渡されたほどの神の大いなる愛を認めさせるためであった。 」
祈りは必ず聞かれる。「祈る事柄に注意しなさい。かなえられてしまうから。」
いつでも御心のままになりますように。
「アブラハムは、神について、かつて人間に与えられた最高の教訓を学んだ。死ぬ前にキリストを見たいという彼の祈りは答えられた。彼は、キリストを見た。彼は、人間が見ても生きることのできる全部を見たのである。全面的に屈服することによって、彼は自分に与えられたキリストのまぼろしを理解することができた。神は罪人を永遠の滅びから救うためにひとり子をお与えになることによって、人間がなし得るよりももっと大きな、そしてもっとすばらしい犠牲を払おうとしておられるのだということを、彼は示された。 」
「いま人々の中には、祭司たちとラビたちの味方になって、石をとってイエスに投げつけようとする者が多かった。「しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」(ヨハネ8:59)。」
イエス様に石を投げつけようとする者が「多かった」
イエス様が愛しておられる方々から、救おうとされた「多くの人々」からそうされたことは、イエス様にとってどんなことだっただろう。
「光であられるキリストが暗黒のうちに輝いておられた。しかし「暗黒はこれを悟」らなかった(ヨハネ1:5・文語訳)」
宗教指導者、群衆、彼らは比較的暗かったのではなく 暗黒だった。
「罪はこの世で罰せられると、ユダヤ人は一般に信じていた。」
一般的に信じられていることが、正しいとは限らない。
罪はこの世で罰せられるのではなく、さばきの時に罰せられる。
「このようにしてイエスは、弟子たちの質問に実際的な方法でお答えになったが、好奇心から出た質問にはたいていこんな答え方をされた。弟子たちは、だれが罪を犯したとか犯さなかったとかいう質問を議論するのでなく、盲人に視力をお与えになった神の力と恵みを理解するように求められた。どろや、盲人が洗いに行かされた池にいやしの力があったのではなく、その力はキリストのうちにあったことは明らかであった。」
イエスさまは好奇心から出た質問にはたいていこのようなお答えをなさる。
「ラビたちは「もう1度この盲人に聞いた、『おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか』。『預言者だと思います』と彼は言った」(ヨハネ9:17)。パリサイ人は、この男は生れつきの盲人ではなかったから目が見えるようになったのだと主張した。彼らはこの男の両親を呼び、たずねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか」(ヨハネ9:19)。
自分は生れつき盲人であったのに目がみえるようになったのだと断言している当の本人がいるのに、パリサイ人たちは、自分たちの誤りを認めるよりはむしろ自分自身の目で見た証拠を否定したかった。それほど偏見は根強く、それほどパリサイ人の義はゆがめられていた。
パリサイ人たちにとって一つの望みが残っていた。それはこの男の両親を脅迫することであった。」
暗黒の人々は奇跡が起こっても認めないようにする。
「パリサイ人たちがおちいっているジレンマ、彼らの質問と偏見、事件の真相に対する彼らの不信などから、群衆、特に一般民衆の目がだんだん開かれてきた。」
暗黒の人々の偏見 脅迫 からも人々の目が開かれ、イエスさまのみわざを宣伝する。
「この論争は両者の間で非常に熱してきていた。
パリサイ人たちは、自分たちが、イエスによってなされたみわざを宣伝していることに気がついた。」
「盲人は喜びと感謝に満ちていた。彼は、自然界のすばらしいものを目に見、地と空の美しさを見て喜びに満たされた。彼は、遠慮なく自分の経験を語った。」
喜びと感謝 遠慮なく自分の経験を語ること。
「するとまた彼らは、彼をだまらせようとして、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」と言った(ヨハネ9:24)。あの人がおまえの目を見えるようにしてくれたと2度と言うな、おまえの目が見えるようにしてくださったのは神であるというのだった。」
人は正論を言おうとして、イエスさまに栄光を帰すことがある。
「パリサイ人たちは、生れつき目が見えない無教育なこの男よりもほかのお方を相手にしなければならないことに気がつかなかった。彼らは、論争している相手のお方を知らなかった。」
人は人と相手をしていて、神さまと論争していることがある。
「主イエスは、この男が経験している苦悩を知っておられ、彼に恵みとことばをお与えになったので、彼はキリストの証人となった。」
この方は苦悩していた。イエス様は恵みと御言葉をお与えになられた。
「イエスはこの出来事をお聞きになった。そこでイエスは、そのすぐあとでこの男をみつけて、「あなたは人の子を信じるか」と言われた(ヨハネ9:35)。」
イエスさまは「そのすぐあとで」お言葉を語られる。
「すでに彼は、わが身の不利益もかまわずに、イエスが天来の力の代表者であられることを公然と認めていた。そこでいま彼にもっと高い啓示が与えられた。 」
この方がイエス様を公然と認めたので、もっと高い啓示が与えられる。
「はじめて盲人は、自分を救ってくださった方のお顔を見た。会議の場所では、この男は、両親が困り、当惑しているのを見た。彼は、ラビたちのふきげんな顔を見た。いま彼は、イエスのやさしい、平和な顔つきに目をとめた。すでに彼は、わが身の不利益もかまわずに、イエスが天来の力の代表者であられることを公然と認めていた。そこでいま彼にもっと高い啓示が与えられた。
「あなたは人の子を信じるか」との救い主の質問に、盲人は答えて、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」とたずねた(ヨハネ9:36)。するとイエスは、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」と言われた(ヨハネ9:37)。男は、救い主の足下にひれ伏して主を拝した。彼は肉眼が見えるようになったばかりでなく、さとりの目も開かれたのだった。彼の魂にキリストがあらわされたので、彼は、キリストを神からつかわされたお方として受け入れた。 」
この方はイエス様を見たことがなかった。しかし、さとりの目が開かれた。魂にキリストがあらわされた。イエスさまは魂にご自身を現わされる御方。
「彼は、ご自分が世の光であることを宣言しておられたが、いま行われた奇跡は、イエスの使命を証明した。救い主の来臨の時に主を見た人たちは、前の時代の人々が受けたよりも一層深い神のご臨在のあらわれを示された。神についての知識は、もっと完全にあらわされた。しかしこのようにあらわされたことによって、さばきが人々の上にくだっていた。彼らの品性が試みられ、その運命が決定された。
天来の力のあらわれは、この盲人に肉眼の視力と霊的視力とを与えたが、それはまたパリサイ人を一層深い暗黒のうちに残した。」
イエス様のごわざ、天来の力のあらわれは、人々の運命を決定し、一層深い暗黒に残すことがある。
「あなたがたは自分は見えると信じて、目の見える唯一の方法をこばんでいる。自分の必要を認めるすべての者のために、キリストは無限の助けをもってこられた。だがパリサイ人たちは、必要を告白しようとしなかった。彼らは、キリストのみもとに行くことをこばんだ。だから彼らは、盲目のままにとり残された。その盲目は、彼ら自 身の罪である。イエスは「あなたがたの罪がある」と言われた(ヨハネ9:41)。」
目の見える唯一の方法がある。それは「自分の必要を認める」こと。それはすべての者のためなので例外がない。
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