第43章 打破された壁

「 その向こうには地中海の青海原があったが、この海を渡って、福音の使者たちは、世界の大帝国の中心に喜びのおとずれをたずさえて行くのであった。」

宣教は 喜びのおとずれ である


「彼女はこれまで異教の神々の助けを求めたが、何の安心 も得られなかった。時々彼女は、このユダヤ人の教師がわたしのために何ができるだろうかという考えにさそわれた。しかし、イエスに助けを求めた者は、金持ちであろうと、貧しい人間であろうと、あらゆる種類の病気をいやされるといううわさがたっていた。彼女はただ一つの望みを失うまいと決心した。」

イエス様は異教の神々に助けを求めた人でさえ、喜んで救ってくださる


「キリストはこの女の事情をご存知だった。主はこの女がご自分に会いたいと心から願っていることをお知りになって、彼女の道に身を置かれた。」

イエス様はイエス様に会いたいと心から願っている私たちの道に身を置いてくださる。

「イエスは、イスラエルの国のすぐ近くの都市や村々に見られる無知に弟子たちが気づくように望まれた。真理を理解するためにあらゆる機会を与えられている民が、周囲の人々の必要については何も知らなかった。暗黒のうちにある魂を助ける努力は何もなされていなかった。ユダヤ人としての誇りによって築かれたへだての壁は、弟子たちが異教の世界に同情するのさえさまたげていた。だがこうした壁は打破されるのであった。 」

イエス様は、無知に、周囲の人々の必要について 気づく、知るようにお望みになる。

「キリストは女の願いにすぐにはお答えにならなかった。」

イエスさまは願いにすぐにお答えにならないことがある。

「彼女のことばが耳にはいらなかったかのように、イエスが通り過ぎて行かれると、彼女はイエスについてきて願いつづけた。」

イエスさまは、私たちの祈りが耳にはいらなかったように、通り過ぎて行かれることがある。


「女は、キリストの足下にひれ伏して、ますます熱心に事情を訴え、「主よ、わたしをお助けください」と叫んだ(マタイ15:25)。イエスは、ユダヤ人の無情な偏見に従って、あいかわらず女のたのみをしりぞけるふうをして、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と答えられた(マタイ15:26)。このことは、恵まれている神の民に与えられた祝福を他国民や、イスラエルに国籍のない外国人に気前よく与えることは正当でないといっているのと同じであった。熱心さの足りない嘆願者だったら、この答に落胆してしまったであろう。ところが女は、自分の機会がきたと思った。イエスは表面拒絶しておられるが、女はその底にかくしきれない憐れみを見たのである。女は答えた、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」(マタイ15:27)。家族の子供たちは、父親の食卓で食べるが、犬たちでさえ食物をもらわないでほうっておかれることはない。犬たちは、十分な食物のある食卓から落ちるパンくずをもらう権利がある。そのように、多くの祝福がイスラエルに与えられている一方には、彼女のためにもまた祝福があるのではないだろうか。彼女は犬としてみられていたが、そうならイエスの豊かな恵みからこぼれるバンくずをもらう犬の資格もあるのではないだろうか。」

「あいかわらず女のたのみをしりぞけるふうを」されることがある。この時に自分の機会が来たと思うことはとても重要。「かくすことがおできにならない憐みがある」


「彼女は、その行動に影響するような国民的あるいは宗教的な偏見や誇りなどを持っていないので、イエスがあがない主であり、また願うことは何でもかなえてくださることができるお方であることをすぐに認める」

国民的 宗教的な偏見 誇りはわざわい

イエスがあがない主であり、また願うことは何でもかなえてくださることができるお方。

「女は救い主を認め、自分の祈りがきかれた喜びのうちに帰って行った。」

彼女もイエス様の御言葉を信じ、結果を見ないで、感謝して帰っていった。


 「弟子たちは、イエスが恵みの賜物をあまりにも惜しげなく施されると思っていた。イエスは、ご自分の愛が民族や国民に限定されるものではないことを示したいと望まれた。」


イエス様は人から見てあまりに惜しげなく施される 

「救い主がフェニキヤを訪れ、そこで奇跡を行われたことにはもっと広い目的があった。この働きがなされたのは、苦しんでいる女のためだけでもなければ、弟子たちや弟子たちの働きを受け入れた人々のためだけでもなかった。それは「あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るため」であった(ヨハネ20:31)。1800年前に(注・本書の執筆当時からかぞえて)人々とキリストとの間をさまたげていた勢力は今日も働いている。ユダヤ人と異邦人との間のへだての壁を築きあげた精神は、いまも生きている。誇りと偏見のために、異なった階級の人々の間に頑固なへだての壁が築かれてきた。キリストとその使命はまちがって解釈され、一般の人々は、自分たちは事実上福音の働きからしめ出されていると思っている。だがキリストからしめ出されていると彼らに思わせてはならない。人間やサタンが築くことのできる壁で信仰によって突破できないものは一つもない。」

イエス様のなさることはいつも「あなたのため」

一般の人々も福音の働きに携わることができる


「フェニキヤの女は、ユダヤ人と異邦人の間につみあげられた壁に信仰をもってぶつかった。落胆させられるようなことに抵抗し、疑いたくなるような様子がみえたにもかかわらず、彼女は救い主の愛に信頼した。キリストは、われわれがこのようにキリストに信頼するように望まれる。救いの祝福はすべての魂のためである。自分自身でえらぶ以外には、どんなものも、人が福音を通しイエス・キリストにあって約束にあずかる者となるのをさまたげることはできない。」

キリストは、われわれが「落胆させられるようなことに抵抗し、疑いたくなるような様子がみえたにもかかわらず、キリストに信頼するように望まれる。


「神は差別的階級制度を憎まれる。神はこの種のものをすべて無視される。神の御目には、すべての人の魂は同じ価値がある。神は「ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれ一人一人から遠く離れておいでになるのではない」(使徒行伝17:26、27)。年令、地位、国籍、宗教上の特権などの区別なく、だれでもみな神のもとにきて生きるように招かれている。「『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』……ユダヤ人とギリシャ人との差別はない」「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく」「富める者と貧しい者とは共に世におる、すべてこれを造られたのは主である」「同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んでくださるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである」(ローマ10:11、12、ガラテヤ3:28、箴言22:2、ローマ10:12、13)。」


神は差別的階級制度を憎まれる。神はこの種のものをすべて無視される。神の御目には、すべての人の魂は同じ価値がある。










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